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平泉の栄華を残す”光堂”~中尊寺【一ノ関・平泉②】

 

2回目はみなさんもご存知の金ピカの世界遺産です!

ということで、前回の続きからスタートします!

 

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一ノ関駅から北に2駅!

平泉駅に到着です!

 

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観光の拠点の駅なので、景観に配慮したオシャレ駅舎になっています!

 

ここでレンタサイクルを活用します!

駅前にある、なんと自販機でレンタサイクルを借りることの出来るハイテクなシステムでした!

 

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道の途中、無量光院の跡があります!

 

今では跡ということで、このようになっていますが現存した頃は京の平等院鳳凰堂を真似た荘厳なつくりであったようです!

 

平泉の栄華を築いた奥州藤原氏の三代目、秀衡が建立した寺院です。

 

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駅からは約1.6キロ!

中尊寺の入り口に着きました!

自転車の方は道路を挟んで線路側の大きなお土産屋さんの一角に駐輪場がありました!

 

ここから月見坂といわれる参道を登っていきます!

 

この沿道の並木は、江戸時代に伊達藩(伊達政宗で有名な藩です)により植樹されたものだそうです!

 

そのため、樹齢300年から400年といわれています!

 

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途中で脇道に入ると、北上川を望むことが出来ます!

 

場所は少し違いますが、まさに

 

夏草や 兵どもが 夢の跡

 

と読んだ松尾芭蕉の気持ちもなんとなくわかる気がしました。

 

ちなみにこの句は、義経公の居館があったと伝えられる高館の丘陵から読まれたとされています。そこからも同じように北上川や平野部が見えます。

 

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坂を昇っていくと、綺麗な紅葉がトンネルのように続いていました!

 

この月見坂は昔から参道として使われてきたものです!

 

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途中にはいわゆる中尊寺としてイメージされる本堂の他にも多くのお堂があり、そのそれぞれで、参拝(言い方あってるかわかりませんが泣)したり、御朱印を貰ったりすることができます!!

 

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とにかく鮮やかな紅葉です!

平日であったのであまり混雑などしていませんでしたので、じっくり楽しめました!

 

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さて!こちらが有名な写真です!

この建物の中にかの金色堂が守られています!

 

ちなみに中は撮影禁止だったと思います泣

 

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現在は、雨風を凌ぐだけでなく湿度なども厳重に管理されていますが、松尾芭蕉が訪れた当時は、金色堂すら朽ちてしまいそうな状態でありました。

 

途中から覆堂という被せ物がされてはいたものの、風雨に晒され僅かな光を放つのみだったと言います。

 

そこで読まれたのが有名なこの句、

 

五月雨の 降り残してや 光堂

 

ここでも芭蕉は僅かに感じとれるかつての栄華と当時の人々への想いをこの句に込めたのかもしれません。

 

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【なぜ”かつての栄華”という話が平泉の代名詞となっているのか】

 

⇒本当にこの世の浄土と言われるほどの”楽園”が築かれていたんです!

 

 

何故ここが楽園になったのかというと、奥州藤原氏が大きな影響を与えたのです!

 

 

長い争いの時代において、戦いのない平和な世を願った、初代清衡公がこの地に「仏国土を建設することを決意したと言います。

 

金が多く取れることで、その「楽園」は栄えに栄えました!

 

奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年にわたって繁栄を極め、平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となった。戦乱の続く京を尻目に平泉は発展を続けた。半ば独立国であった。

 

 

実際、マルコ・ポーロによる東方見聞録の中で有名な“ジパング”という国は、この平泉であったとも考えられています。

 

金色堂はそんな当時の豪華さを唯一残しているものと考えることもできます!

 

 

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【なぜそんな楽園は衰退したのか】

 

それは超有名な源頼朝源義経が関わっています。

 

3代目の秀衡が、縁があったことから兄に追われた義経を平泉に匿いました

 

そんな優しい秀衡は、頼朝から出された義経の引渡要求を最後まで拒み続けて匿いました。

 

しかし、秀衡の死後、息子の泰衡(4代目)は頼朝の要求を遂に飲んでしまいました。

 

そして、義経を追い込み、自害した義経の首を頼朝に引き渡すことで、平泉を守ろうとしました。

 

しかしその目論見とは逆に、平泉が繁栄しすぎたことで、一大勢力として恐れを抱いた頼朝は、結局要求通りにしたにもかかわらず、攻め入られ殺害されてしまいました。

 

この際に、義経に仕えていた武蔵坊弁慶は主君を守るために立ったまま弓で射抜かれて、往生(死なれた)ことから『弁慶の立ち往生』という言葉が出来たとされています。

 

結果として、奥州藤原氏が滅亡し、この世の楽園と称された平泉もまた、衰退の一途を辿っていくことになるのです。

 

松尾芭蕉

国破れて山河在り
城春にして草木深し

という漢詩を引用して詠んだのがこの有名な文です。(同行していた曽良の句も入っています)

 

三代の栄耀一睡のうちにして大門の跡は一里こなたにあり。
秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。
まづ高館にのぼれば北上川南部より流るる大河なり。

衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。
泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて、南部口を固め、夷を防ぐと見えたり。
さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。

「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、
笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。

 

夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡

 

卯の花に兼房見ゆる白毛(しらが)かな  曽良 

 

と、田畑や草に消えてしまった過去の栄華に思いを馳せて嘆いたその気持ちも、少しだけわかる気がしました。

 

ただの金ピカのお堂があるというだけでなく、そこで何が起きてどんな想いが眠っているのかという所まで、想いを馳せる観光というのもいいと思いますよ!

 

そんな生意気なこと言っている私も、大人になって、修学旅行で事前学習をしていた意味がわかるようになりました!(笑)

 

 次回は、最終回!!

 

団子が渓谷を超えて飛んでくるびっくりな場所です!!